1989年12月01日

走るぜ!オッサン仕様の自転車

北寮には寮が所有する自転車が数台おいてあった。
この自転車は使用許可をもらって各自使用することができる。

しかし、この自転車。

ママチャリとかマウンテンバイク仕様とかではなく、おまわりさんが乗っているような、いや、商店街とかでオッサンが荷台に野菜を積んで走る用とでも言おうか、鉄製で重量もあり、そのへんに捨てられていても誰も拾わないようなボロ自転車だった。

それでも、自転車があると便利なもので、詰所に用事が出来た時などに使わせてもらった。

ある日の日曜日、友人のふしん寮3階の大ちゃんと出かけることにした。
遊びに行くのに自転車を使うのはイケないのだが、それらしい理由をつけて借りたんだと思う。

2台並んだオッサン自転車。さて、どこに行こう!

大ちゃんはエディーマーフィーの映画が見たいという。
私はエディには全然興味はなかったのだが、上映時間が合わなかったら寅さんを見ようと提案し出発した。


寮を出発して北へ向かう。

この辺はやはり歴史があるからか、当時の道路を元に作られているんだろうけど、国道なのに道幅が狭い。後ろから来るトラックにビビりながら1時間くらいだっただろうか。

着いたのは奈良市。

観光客で賑わう街なかをオッサンチャリ2台がすり抜ける。

マクドナルドに入って昼食をとる。ちなみに人生初のマクドナルド。
もちろん北海道にもマクドナルドはあったが、私の住んでいた町は田舎町なのでそんなものはない。
隣の大ちゃんに悟られないように落ち着いて注文する。
ちなみに、大ちゃんは大阪の堺市出身である。

北海道の小樽の高校から来たらしい修学旅行生を見つけた。
久々に聞いた、しかもキツメの北海道弁を懐かしく思い、自分はちょっとだけ関西弁を強調して話しながら横を通り過ぎた。

結局、映画の時間を確認することもなく、あの自転車でチョロチョロと奈良市を散策して帰ることにした。

何をするでもなく過ぎていった日。こんな毎日だった。

もう外は寒く、2学期もあと少しで終わる。

1989年11月18日

リベンジ十三峠越え!

また秋の恒例行事である十三峠越えの季節
1年生の時は同室のセンパイと道に迷って、朝日も高くなってから帰ってきたという実績があるのである。

まずは瓢箪山駅まで電車で移動。
バンダナをしているのが私。ヤル気が見えます!

13峠2年.jpg


しかし、昨年道に迷って、予習はしてないので今年も道はわからない。

みんなに付いて行けばいいのだけれど、そこはお年頃の青春時代。
なんだーかんだーと友人と話しながら、ダラダラ歩く。

また、普段は深夜の外出は許されない寮生活で、この日に関しては夜どおし寮から離れて、徘徊できるのである。

まぁ、深夜徘徊といっても歓楽街などを歩くわけではなく、住宅地を歩くので(いや、この時点で気づいたが、まともな道で帰ったことがないので、住宅地を歩くのは違うルートなのかもしれない。)周りはひっそりをして、もちろん大声で騒ぐと近所の迷惑になるので、でもキャッキャとハシャギながら歩くのである。

そして気づく。
周りには誰もいなくなっていることを。

今年もまた大集団からは離れてしまい、仲の良い友達5人で迷ってしまった。

昨年はそれでも何とか歩いて帰ってこれたのだけど、今年は本格的に迷っている。

時間は深夜1時過ぎ。真っ暗け。

リーダー格の土田が言う。
「もうどっかで休もうぜ!」

おぅおぅ!と言って、休んだのは公園のベンチや駅前ではなく、普通の住宅と車庫の隙間。

風を避け、車庫を背もたれにして小一時間の休息。
完全に不法侵入。

「北海道のお父さんお母さん、僕は今、野宿中です。」


空が少し明るくなってきて、
「太陽があっちから登ったから天理は多分こっち方面だな」と、小学校の理科の時間に習った太陽の動きを思い出す。

結局のところ、今年もまともに帰って来なかったわけである。

あの時、理科の時間を思い出したから良かったものの、天才バカボンの歌を思い出していたら、西から登ったお日様を見て、更に迷っていたことだろう。

img002.jpg


今の時代ならiPhoneなどで自分の居場所がGPSでわかって最短距離で帰ってこれたのだろうが、こうやって迷いながらも、友達といろいろバカ話をしながら回り道をすることも大事だとオッサンになって思うのであります。

1989年10月20日

天高祭と寮祭

今年も天高祭の季節がやってきた。私のクラスが男子も女子も仲が良かった。
クラスごとに模擬店やらなんかをやってるとは思うのですが、 今となっては記憶が全くないのです。残念。

1年生の時の天高祭では、クラス対抗カラオケ大会が行われた。
そして、欠席裁判のような形で私を含む野郎3名が選出され、サザンの新曲『みんなのうた』を歌ったのを思い出した。


さて、2年の寮祭である。

年開けから新たにスタートした、我があらき寮4階のラグビーチームの公式戦?デビュー!
昨年は学ランにハッピ姿で応援していたのだが、今年からはレギュラーとして試合に出るのである。

2学期から各塾の練習が本格的に始まる。しかし、我らあら4チームは、1学期のうちから暇なもん同士でパスやパスなどの練習をしてきたのである。

天高祭2年キックオフ.jpg

さてさて、試合の結果は記憶の外ではあるのですが、一つ覚えているのが、ふしん寮4階との試合の時、私はタックルされて倒された。

しかし、倒れながらも横に走り込んでいたセンパイにパス!
我ながらうまいこといったと思ったのですが、問題は私にタックルしてきた奴。

彼も2年生でこの試合がラグビーデビュー戦。
ちなみに同じクラスで静岡出身の鈴木くん。

ここ数日のセンパイや幹事さんからの指導もあったのだろう。
タックルするときはキンタマを握るんや!ほんなら相手は力抜けるんや!

まるで亀田家のボクシング方針のような指導である。

結果、私を倒すことは出来たが、私のふくらはぎのあたりをようやく捕まえている体制。
ボールはもう私の手元にはない。
しかし、彼はしぶとかった。

あの指導を忠実に守ろうとした。
すっかり倒れている私に対して、空いている片手でキンタマ君を握ってきたのである。

ヴェ!!!

涙が出た。



寮祭は、天理市民会館で夜の部もあるのですが、毎年ゲストがやって来る。
しかし、この年に誰が来たとか全く覚えてないんだなこれが。

何考えて過ごしていたんだろう?

たぶん、自分なりに色々考えながら楽しい日々を過ごしていたんだろう。

天高祭2年.jpg

1989年09月10日

暗黙の了解


いきなりではあるが、男子たるもの、年頃になると下の部分がムズムズする。

自宅生の場合は、自分の部屋でチョイチョイと解決できるのであるが、いかんせん我らは天理学寮北寮生なのである。

人の目をかいくぐり、各自どうにかしてムズムズを解消するのである。

場所はトイレ、もしくは同室人がいないときに部屋でチャッチャと、各自方法があったのだろう。


ふしん寮5階のT君は、ある休日に友人H君の部屋に遊びに行った。話をしている間に疲れて眠くなってしまって、その友人の布団に入って寝てしまった。よくある話である。

しかし、目が覚めたときに感覚が違ったらしい。(本人談)
どうもしばらくムズムズの解消を怠ったために、本人の意思に反して、友人の布団の中で強制的に出してしまったのである。

T君は『わりーわりー』と笑いながら謝った。
H君は『マジデーマジデー』と半泣き状態で布団を干していた。


ある日、1年の鈴木が面白いものを持ってきた。

それは、プラスチックでできたトイレットペーパーの芯である。その芯にはセンサーが装てんしてあって、動きを感知するとミッキーマウスマーチが流れる。
たぶん、うんこ様をするときにプリプリの音を消すためにカモフラージュでマーチが流れるのだろう。

鈴木が言うには、これを夜の点呼が終わったらトイレに仕掛けておきましょう。というのだ。

よし!と、あらよんのトイレに仕掛けた。うんこ様用のトイレは6つ。確率は1/6である。


点呼が終わり、鈴木はトイレで人知れずブツを設置。
あとは静かに耳をそばだてているだけ。


30分ほど経った時、トイレから軽やかな音楽が鳴った!

♪僕らのクラスのリーダーは ミッキーマウス ミッキーマウス ミッキミッキマウスー♪

それ!とトイレの入り口で待ち構えた。
すると2年のY君がウロタエタ様子でトイレから出てきた。

Y君〜、何してたの〜?

10数名がトイレで待ち構えていたので、Y君もびっくりしただろう。
はたしてスッキリは出来たのか?


こんなことをして毎日がとても楽しかったのです。





ムズムズというと、もう一つ経験したことがある。
どうしても、寮のお風呂は共同なので避けられなかったのか、自分が悪かったのかわからないが、インキンである。

あれはかゆい!

なんかムズムズするなと思って、下のほうをポリポリ掻くと毛のあたりがかき過ぎで真っ赤になって痛がゆい。
そして、常に湿ってる感じ。

たぶん、寮の中で流行していたのだろう。
ベビーパウダーがそこらじゅうに置いてあった。


1989年09月01日

2学期〜部屋替え



残暑厳しい9月。
夏休みもフル地元で過ごし、同じような毎日を過ごした。
今はもう天理に戻って友達の顔を見るのが楽しみだった。

ある先生から2年生の2学期からなら、まじめに勉強したら東大に入れると聞いた。
ヨシ!真面目にやってみっか!と思ったけど、その気合も3日で消え失せ。

卒業後の進路をボンヤリではあるが考えるようになった。

自分は将来何がしたいんだろう?
答えが見つからないので、とりあえず大学に行ってから考えることにした。
そのためには大学に行かなければならない。

さしあたって、いつもの本屋に行って参考書コーナーも見る習慣を付けた。


2学期になって恒例の寮の部屋替えが行われた。
いつもではあるが、長期休暇から寮に戻ると、新しい部屋の前に名前札がぶら下がっているのである。

俺の部屋はどこになったのかな?と探したら、3年生の吉福さんというあらき寮4階の総務(学級委員長みたいなもの)と私、そして角田?!

角田って誰だ?と思ったら、今までは自宅から通っていたのだが、今学期から北寮で生活することになった私と同じ2年生らしい。

吉福さんは九州出身(熊本?福岡?)で豪快でカッチョイイ先輩だった。

1年生の時の予餞会でも、我らフラワーダンサーズの振り付けをしたり、総務をするだけあってみんなが信頼している人だ。




いつも同じ屋根の下で生活しているだけあって、寮生同士は結構仲が良かった。
なかでも同じ塾の寮生は兄弟のような存在で、兄弟のいない私にとっては寮生活がとても楽しかった。

あらき寮4階に前ちゃんという私と同じ2年生がいた。前ちゃんは広島出身で、私と同じ誕生日ということもあり、とても仲よくしていた。また、サッカー部だったので中学の時にサッカーをやっていた私と気があった。

ある日、サッカー部の連中が近くの学校でサッカーして遊ぶということで、前ちゃんが誘ってくれた。

もちろん、本気でやっても現役のサッカー部にはかなわないが、みんな遊びでワイワイと遊んだ。

『今からでもサッカー部入ってやれるんじゃないか?』と言われたのがうれしかった。


クラブ活動をやっている連中は、20時20分の点呼までに夕食と入浴を済ませる。
点呼のあとは自習時間となっているので、他の階に行くとこはできない。

だから、自習時間は同じあらき寮4階の誰かの部屋に行ったり、遊びに来たりして過ごす。
ジュンスカとかWinkとか工藤静香とか、自分の趣味ではない曲も、誰かの部屋に行ってラジカセで聴かされて覚える。

部屋にテレビは無いので、ラジカセでラジオを聴いていた。当時は中島みゆきのラジオが面白くて、いつも聴いていた。この時間を勉強に費やせば東大に行ってたかもしれない。


1989年07月10日

僕らの1時間戦争

あれは7月頃のことだったと思う。
北寮の幹事さん(各塾の学年ごとに1名ずついる生活指導の先生のようなもの。お兄さん的存在)が全員とある行事で外出している夜があった。

日課.jpg


普段は20時20分の夜の点呼のあとは22時25分まで自習時間なのであるが、
今日は幹事さんがいないのである。自習をしなくても怒られないのである。(いつもしないけど)



16〜18歳の血気盛んな男子達はなんか面白いことないかな?
とウズウズしていた。


寮建物配置図.jpg



配置図の通り、天理高校の寮はあらき寮とふしん寮で、もうひとつの陽心寮というのが天理高校の2部生(定時制)用の寮だった。


2部生は日中は天理関係の仕事をする。朝夕の食事用の野菜を作ったり、電気関係、学校関係の仕事をして夕方から授業なわけである。


普段は2部生と交流は無い。特にいがみ合っているわけではないが、その日はタイミングが悪かった。


陽心寮の幹事さんも我々の幹事さん同様に行事のため外出していた。
どちらの寮からだったのかわからないが、誰かが大声で叫んだ!



『おいコラ!うるせぇんだよ!』


『なんや!ゴルァ!!!畑でも耕してろ!』


『うるせぇ!親のスネかじり』


お互いの寮の窓から互いにののしりあった!
なぜ持っていたんだろう、宣戦布告としてロケット花火が陽心寮からあらき寮に飛んできた。


窓の外には洗濯物が干してあったのだが、誰かのTシャツにロケット着弾!



『なにすんねん!』



こっちはこっちで秘密兵器があるのだ。


朝食の時に出た、夜にでも食べようと思っていた生卵である。
それぞれ冷蔵庫から生卵を取り出し、陽心寮に向かって投げつけた。


アーッという声が聞こえてくる。

ウッシッシ!


その後も、手当たりしだいその辺のものを投げつけた。
約1時間くらいの戦争だった。


留守番の幹事さんに見つかってあっけなく終戦。

一瞬で燃え尽きた若い血潮。7月の暑い夏。

その後、1年の誰々が2部生にシバカレタという噂も聞いたが、ほどなく平穏な日々が戻った。

1989年07月01日

生卵とカレー曜日


寮での食事はまあまあ良かった。

天理では信者さんが宿泊するための詰所がたくさんあって、給食センターのような感じで、朝夕と大量の食事が配送される。

また、学生寮もたくさんあるので、食欲旺盛・成長期まっただ中の我々には、別メニューが配送されていた。



朝の点呼が終わると食堂に行って朝食を摂る。
朝は質素なメニューで、生卵とか味付きノリとかである。

なんせまだ眠いので、みんなモクモクと下を向いて胃に流し込む。


卵の気分じゃないときは、夜に茹で卵にして食べようとズボンのポケットに入れる。
食べ終わった後、急いで部屋に戻ろうと、階段を一段飛ばしで駆け上がると、先ほどのポケットに入れておいた卵が割れて下半身ベタベタになったこともしばしば。



夕食は色々おかずの付いたメニューだったが、決まっているのは毎週日曜日の夕食はカレーライス。
たぶん、一番人気だったのかもしれない。

しかし、私は子供のころからカレーライスが苦手だった。
苦手というより嫌いな部類に入る。

中学生の頃は給食にカレーライスが出て、いやいやながら食べたら急性胃腸炎になって点滴をした実績もある。


でも、ここではそんなことは言ってられないのである。毎週毎週、我慢して食べているうちにカレーライスが好きになってしまった。


ちなみに私は、カレーライスのほかにもラーメンも苦手である。
ヨメが無類のラーメン好きのため、一緒に食べてるうちに、今ではすっかり食べれるようになった。


また、楽しみと言えば各学期の定期テストの前には、すき焼き会なんていうのもあった。
栄養つけてテスト頑張れよの意味だと思うが、食べざかりの育ちざかり寮生600人分のすき焼きは壮観である。


すき焼き会3年.jpg

1989年06月01日

デイリーと竜馬



学校帰りの本屋通いは続いていた。

主に文庫本ばかり買う。ハードカバーだと場所を取るし何しろ高い。これは現在でもそうであり、読みたい本が出ても文庫になるまで待つのがポリシー。


本屋を出た後、例のみゆきに寄ったり、CDショップを覗いたりして寮へ帰る。



寮のすぐ手前にはヤマザキデイリーストアがあった。
ここは北寮生なら必ず立ち寄るコンビニ。


あまりに気軽に行けるので、ふしん寮4階のK君は、夏の暑い日にトランクスのまま行ってひんしゅくを買ったらしい。


ちなみに、K君は小学生みたいな童顔で体も小さかった。
ある日、散髪に行ったK君は支払いの段階になって、財布のお金が足りないことに気付いた。

そこで、店主にお金が足りないからと事情を話して、後で持っていけばよかったのに、

K君は自分の童顔を利用して『天理中学生です!』と言った。
ごまかそうとしたのだろうけど、店主がすぐ気付いた。


『天中(天理中学校)なら男子は坊主やろ!』



あとの祭り、結局あとで支払いに行ったらしい。




閑話休題


そのデイリーではいつも楽しみにしているマンガ本があった。
ヤングサンデーである。

当時、ヤングサンデーには『おーい!竜馬』という漫画が連載されていた。

坂本龍馬という名前は歴史の時間でしか聞いたことがなかったけど、この漫画を通じて彼の偉業を知った。

私はそこから龍馬にハマっていった。
そして龍馬ファンの通る道、司馬遼太郎の『竜馬が行く』の文庫本も1冊ずつ買いそろえた。

なんせ『おーい!竜馬』の連載のスピードと一緒に竜馬のことを知っていったので、まだ脱藩したころだった。せっかく京都まで電車で1時間くらいのところにいたのだから、休日にでも色々と観に行っておけばよかったと思ったのは卒業後のことである。

1989年05月01日

学校帰りはブラブラとみゆきへ

クラブ活動もしてないので、授業が終わるとすぐ、友達と市内のアーケードのある本通りを通って寮へ帰る。


本通りは天理の駅から天理教教会本部まで続いており、毎月26日の月次祭近くになると人でごった返す。
おみやげ屋やお茶屋さん・本屋・青果店などなど
今でも緑茶の匂いをかぐと、あの本通りを思い出す。


ただ、本通りを突っ切って寮に帰ることはなく、たいていの場合は本屋に立ち寄った。
文庫本一冊買う。
なんせ、寮に戻ってもすることがないのである。


結局卒業までにたくさんの本を読んだ。(文庫に限る)
作家によって違う文章の言い回しや、表現方法が面白いと思った。




月に何度かは、友人の大ちゃんが『今日、寄っちゃう?』
と、秘密の?合言葉を発する。


すると、僕は『寄っちゃう?』と返事。


どこへ行くのかというと、お好み焼屋なのだ。
本通りから少し離れたところに『みゆき』というお好み焼屋があって、学校帰りによく立ち寄った。


大ちゃんは大阪出身なのでよく食べていただろうが、こっちは北海道出身である。
本場のお好み焼は本当においしかった。
実家でも何度か作ってみたことはあったが、もっさりする。
本場のはフンワリしていて、どうしたらこうなるのかな?と思った。
(今でも自宅で日々、研究を重ねています。)


P1000427.JPG




みゆき.JPG


みゆきには元気なおばあちゃんがいる。数年前に約15年ぶりにみゆきにも行ってみた。
あのおばあちゃんはイスに座って、従業員にアレコレ指示を出しながら大きな声を出していた。


ある時、学校帰りに寮の近くにあったお好み焼屋に行った。(名前は忘れた。)
当然、学校の制服のままで。
お店はおじいさんとおばあさんでやっており、あまりはやってないようだった。
大ちゃんは、
『オッチャン、ビール1本!』
と注文し、『お前ら、学生やろ!』と言いながらもビール瓶を出してくれた。


お好み焼とビールは最高のコンビだと知った。

1989年04月20日

クラス替え

2年生になって理系クラスに進んだ。

クラスは入学時に1類・2類・3類と分かれており、1類が進学コースでA〜H組までが文系、I〜K組が理系。2類のNとO組は特進クラス(頭がいいらしい。俺に比べると)。3類のS組はスポーツ分野において、特に優れた能力を持っているクラス。(現在は芸術分野あるようです。)

担任の先生は英語担当の桐岡先生。ラグビーをやっており、ゴッツイ先生だ。
クラスメートも友人がたくさんいたので、とても楽しみな1年になりそう!

そして、Kという女子が話しかけてきた。
『入試の時一緒だったよね!』
ん?おーおー、見覚えのある子だ。そうだこの子は入試の時に青函連絡船の待合室でお母さんと一緒にいた子だ。
聞くと、彼女も北海道出身で函館の近くらしい。

いろいろ情報を集めると、私の学年で北海道からきている生徒は10名ほどいた。


ついでですが、天理高校は全国各地から集まってくる。
だから、学校や寮では東北弁やら栃木弁やら静岡弁、愛知弁、大阪弁、広島弁、九州弁とさまざまな言語が飛び交うのです。そして、年を重ねるごとに関西弁らしき話し方に近くなって、最後は天理弁というわけのわからない言葉になる。

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